書籍 『最新の資産防衛は聖書に隠されていた』 『聖書に隠された成功法則』 『聖書に隠された性格分析 ケルビム・パターン』 の続編・特別編の公開ページです。
聖書には以下のように書いてあります。
これは成功の3原則であり、使命・天職に生きるため、魅力的な女性・魅力的な男性になるため、そして王さまマインドになるための3原則です。
この3原則を真に理解すると人は成功します。
ここで、王という概念が大切になるので、簡単に説明します。
人には使命が与えられ、各自が与えられた領域で王としての権威を持ちます。
領域とは、家庭、友人、コミュニティー、会社、学校、団体など、あなたが遣わされているところです。
王と聞くと、高慢で横暴な王をイメージする人も多いと思いますが、それは堕落した王であり、ここでいう王とは、本来の王の資質である謙遜なサーバントリーダー(仕えるリーダー)です。
民を守るために命を捨てる覚悟で、国と民を建て上げる使命を持つ者が王です。
そして使命とは、神が定めた、あなたの人生の目的のことであり、そこに向かう時に成功があります。
自分が(勝手に)定めた人生の目的を実現することを「自己実現」といいますが、自己実現に対して、神が定めた自分の目的を実現することを、ここでは「神実現」と呼ぶことにします。
人が神実現(人生の目的・使命・天職)に向かう時、知恵や資金や人脈が備えられ、機会が与えられ、道がどんどん開かれます。
人は与えられている自分の目的(使命)に向かうことが、本人にも一番楽しくワクワクすることであり、本当の成功を実感することになります。
この使命に生きる心の状態を王さまマインドと呼び、その反対の使命感がない心の状態を奴隷マインドと呼ぶことにします。
まず、あなたが「何をすべきか」ではなく、「どんな存在であるか」知ることが大切です。
英語でも、人はヒューマンビーイング(HUMAN-BEING)であり、ヒューマンドゥーイング(HUMAN-DOING)ではありません。
多くの人は、人生の目的を考えるとき、学歴、職歴、資格、生活環境などを基に、自分は何ができるか(Doing)から考察しがちです。
しかしそれ以前に大切なのは、自分がどのような存在(Being)であるか認識することです。
つまり、人の本質は「何をしているか」、「何をするか」ではなく、どんな存在かです。
人は神に愛され、神に似せて創造され、人生に目的が与えられました。
天国は、成功している状態と言ってよく、この成功を地上でも実現するのが、人に与えられた使命(ミッション)です。
人生の目的(ミッション・使命)を一言でいえば、神とともに、この地上を正しく管理し、天国(御国・みくに・神の国)のような素晴らしい環境を創っていくことと、自分自身を、より神に似た者に変えていくことです。
一人ひとり、与えられている使命や領域は異なっており、ユニークです。
ここで、大切なことは、神と人が一緒に世界を治めるということです。
つまり、私たちの人生の目的と、神の計画の内容と目的は同じものです。
それゆえ、人の真の成功とは自己実現(自分の計画の実現)ではなく、神実現(神の計画の実現)という表現がふさわしいことになります。
神の計画とは、アダムとエバ(イブ)以降の荒れてしまった地上を、再び回復し、天国のような正義と平安と喜びに満たしていくことです。
人にとっての成功とは、神とともに自分の周りに天国のような素晴らしい環境を作ることと、そして、自分自身が神に似ていくことです。
人は他の人を幸福にすることで幸福と感じる生き物です。
自分中心に考えている成功者は、真の成功者とは言えません。
また、真の成功者は、自分の周囲の人を成功に導くことを考えます。
人は神に似せて創られており、人の元々の霊的なDNAは、神のDNAだからです。
つまり、人の成功とは、自分だけが成功することではなく、その人に与えられた領域、つまり、自分の周りの家族や知人、友人、会社や学校、コミュニティー、そして、政治、ビジネス、教育、スポーツ、芸術、メディアなど、社会の様々な分野を、より良いものに変革していくことと、自分の内面を磨いていくことです。
ビジネスマンであれば、ビジネスを通して、世の中を良い方向に変革させる者が成功者です。
専業主婦であっても、家庭やその他の領域を任されており、それは重要な意味を持ちます。
子育ても大事な使命です。
神に似せて創られた人の資質は、神の視点に立って、神が愛するものを愛し、神が助けたいものを助け、神が喜ぶことを喜ぶ、という資質であり、これは王さまマインドです。
自分のことばかり考え、視野が狭く、感謝の気持ちがない人は、奴隷マインドです。
あなたが、自分の人生の目的と思っていることが、最終的に自分自身の地位や名声のみにつながり、社会をより良い方向へ変革していかないのであれば、その目的は神から与えられた目的ではありません。
身近な視点であれば、人を励まし建て上げるものが、神から与えられた目的です。
本当の成功とは、次のようなものです。
あなたは、ある島と本土の間に橋をかけるプロジェクトの総責任者です。
素晴らしいデザインで、構造的にも堅固、メンテナンスも容易な橋を造る大プロジェクトです。
この海は常に荒れており、水深も深いので、大変な難事業でしたが、神がともにいたので、いくつもの問題を乗り越えることができました。
途中では、多くの難題が発生しましたが、その難題を解決する知恵や、多くの助け手が、絶妙なタイミングで備えられたのです。
島民たちの長年の念願だった橋ができたために、利便性が素晴らしく良くなりました。
今まで助からなかった救急患者も助かるようになり、すでに、この橋によって多くの人の命が助かりました。
人々は、この美しい橋を見上げるたびに、美しさに感動し、感謝の気持ちで涙を流す人もいました。
しかし、感謝する気持ちはあっても、誰がこの橋を造ったのか考えたことはありませんし、勿論、一番苦労したあなたの名前も知りません。
一緒に造ってきた神だけが、「愛する息子よ、良くやった。あなたは私の誇りだ。」と褒め、励ましてくれる、そのようなものが、本当の成功です。
自分の栄光を求めるのは、取るに足りないものであり、本来の成功ではありません。
神が、本来、私たち一人ひとりに与えている人生の目的は、このたとえ以上の、私達が思いもつかないような、大きなものです。
神は人を愛し、神に似せて創造し、一人ひとりに目的を与えました。
神が、あなたに使命を与えたので、自分の目的を知るためには神に聞くことが基本です。
これは、神との個人的な関係をつくるということです。
そして、日々、朝起きて夜寝るまで、何をすべきかを神に直接聞いて、それに従って行動すると、人生の目的・使命に導かれることになります。
イエスは父なる神に対して「アバ父よ」と祈りましたが、これは、原語では「お父ちゃん(パパ)」、つまり、子供が父親を呼ぶ言い方です。
子供が父親を慕い求めるような関係です。
子供が父親に、気軽に何でも聞くように祈って聞いてみることが大切です。
聞き方に形はありません。
また、神は人の友でもあります。
いつも、あなたの近くにいる親しい友です。
神との親しい関係を意識すると、神から直接、言葉をもらうことや、日常生活の中のちょっとした場面で、神が語りかけていることに気づくことがあります。
聖書を読んでいる時、人との会話の中、出会いや置かれた状況から、さまざまな方法で、やるべきことや、人生の方向が示されていたり、知恵が与えられていることに気づくでしょう。
ここで、大事なことは、神の助けなしに自分の努力で達成できる程度の人生の目的は神が与えた目的ではないということです。
普通に考えると大変な、そして大きな目的ですが、それを進めていくと知恵が与えられたり、助け手が与えられていくような、そのような目的が、神が与えた目的です。
大きな目的と聞くと、「頑張らないといけない」と思ってしまうかもしれません。
しかし、人が頑張ろうとする時、神が不在になり、自分でも気づかないうちに、自分のための努力に入れ替わっていくことになります。
「自分のために頑張る」は自己実現であり、成功には至らないのは当然ですが、「神のために頑張る」と思う気持ちも正しいとは言えません。
そのような思いがあるとすれば、それは宗教化した思い、つまり自分で天国を創ろうとする思いで、間違っています。
神は全能ですから、本来、人の助けは不要です。
しかし、私たちのミッションは、神と人とがチームを組んで、この地上を天国に実現していくことです。
「神とともに創り上げる」スタンスが大切であり、これは常に、人を励まし建て上げるという影響を、直接的にも間接的にも、周囲の人や社会、そして自分にも与えていきます。
そして、このプロジェクトは、神とあなた一人だけで成し遂げるものではなく、他の人と個々に役割分担をしてチームを作って成し遂げるものです。
つまり、他の人を巻き込んでいくようなものが、あなたに与えられた人生の目的(ミッション・使命)です。
大きなプロジェクトには、さまざまな役割分担が必要です。
そして、そのプロジェクトに参加する人は、各自が与えられた分野で王として、自主的、主体的に参加することになります。
神は人を愛し、人が幸せになることを願っています。
そして、あなたに良いものを与えようとしています。
あなたが神から愛されていることを知り、実感することは、とても大事です。
なぜなら、人は愛されていることが良い原動力となり、大きな事業を推進するパワーになると同時に、人生の目的・使命を理解する上で根底を成すものだからです。
「神が、あなたを愛しているゆえに、神に似せて創造し、神とともに地上に天国を創っていくという使命を与えた」が人生の目的・使命の根底にあります。
愛を原動力とすることで、判断基準や方向性、行動において決定的に良い結果をもたらします。
子供の教育でも、親から、たっぷり愛されている子供は健やかに成長します。
神を知らないで生きてきたとしても、神が人を愛しており、私たちの今までの人生の中で、手助けをしてくれています。
その手助けをしてくれたポイントを知ることで、神の愛と計画の方向性を知ることができます。
神があなたの人生を手助けしていたポイントとは、人生の目的に向かう準備や訓練のポイントであることも多いです。
過去の辛かった経験、苦々しく思った経験は、実は、大事な訓練の時です。
芋虫がサナギになり、そして、サナギから出て蝶になろうとする時、サナギを破るのに、大変な力を使い、長い時間もがきます。
そこで、人が可愛そうに思って、最初からサナギに、はさみで切り目を入れてあげて、簡単に出てこられるようにすると、その蝶は飛べなくなってしまいます。
なぜなら、サナギから、出ようと長時間、力を使ってもがくことで、蝶は羽に飛ぶ力を付けているからです。
つまり、試練だと思っていたことは、実は、蝶が宙を優雅に舞う力をつけるために必要な、一番大切なことだったのです。
これと同じように、人にとっての試練は、人が成功するための訓練なのです。
そして、試練には脱出の道が備えられています。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 (Ⅰコリント10:13)
さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 (ヤコブ1:2)
試練があった、つまり訓練があったということは、その先にあなたの行くべき道が備えられていることになります。
世界的に有名な詩があります。(作者不明)
○詩 砂の上の足跡
ある晩、ある人が夢を見ていた。
夢の中で彼は、神と一緒に浜辺を歩いていた。
そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。
どの場面でも、砂の上には2人の足跡が残されていた。
ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のもの。
人生のそれぞれの場面が目の前から消えていき、彼は振り返り、砂の上の足跡を眺めた。
すると彼の人生の道のなかで、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあった。
しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときだった。
驚いた彼は、神にそのことを尋ねてみた。
「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私と共に歩いてくださるとおっしゃいました。
しかし、私の人生の最も困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。
私が一番あなたを必要としたときに、なぜ、あなたは私を見捨てられたのですか?」
神は答えられた。
「わが子よ。わたしの大切な子どもよ。わたしはあなたを愛している。
わたしはあなたを、決して見捨てはしない。
あなたの試練と苦しみの時に、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時、わたしがあなたを背負って歩いていたのだよ。」
試練の時は勿論、人生のさまざまな局面で、神が手助けや、整えてくれているポイントがあります。
過去を、しっかり、かえりみることで、あなたの人生の目的・使命の方向性が見えてきます。
神が与えようとしている良いものを素直に受け取ることが大切ですが、それを拒絶していたことがあったかもしれません。
神が与えようとしている良いものとは、時には試練や訓練かもしれません。
試練や訓練は、飛躍や成功に必要なものです。
成功には、ある程度の粘り強さや、期待を持ち続けることも必要です。
過去の自分の人生について素直に見ていくと、多くの神が施してくれたポイントが分かってきます。
そして、過去の延長線上にある未来が見えてきます。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 (イザヤ43:4)
あなたが、神とともに歩む、つまり、神とともに、人生の目的・使命に進むことは、神が最も喜ぶことです。
なぜなら、あなたは、神に愛され、使命に生きるために、神に似せて創られたからです。
反対に言えば、使命に生きていない状態は、的外れの生き方をしているということです。
神の教えを守ること、つまり、高潔に生きることは、神が喜ぶことです。
聖書に書かれた律法とは、人が高潔に生きるための基準として与えられたものです。
しかし、高潔に生きようとしても、神があなたを愛していることを理解しない、つまり愛を原動力としない場合、すぐに形式化、宗教化してしまいます。
神とともにこの地上に天国を創るのではなく、自分の力で天国を創ろうと努力する行為は、身を滅ぼす元凶です。
愛のない高潔さは、完璧・理想を自他に求め、批判的となり、喜びがない、妬みと裁く気持ちに支配される人生になり、成功の道から外れていきます。
自分の人生の目的(使命)は、行動することで鮮明になる部分があります。
行動しながら考える、検証していくという感覚です。
困難に見えた道が、どんどん開かれていけば、その道は使命に続いている可能性が高いです。
また、使命に進む時には、最初に知恵が与えられることが多いものです。
この世での優れた知恵やアイデアは神から受けたものです。
知恵が与えられたら、その方向に進んでみると良いでしょう。
それが使命(人生の目的)であれば、権威が与えられているので、道が開かれていきます。
権威が与えられているかどうかは、行動してみないと分からないこともあります。
あなたが、本を書くことが使命だとすれば、まず、その内容について神の知恵が与えられます。
神の知恵とは、人を励まし、建て上げ、世の中を良い方向に変革していくものであり、今までにない創造的なものです。
与えられた知恵を本にするために原稿を書き始めると、どんどん出版の道が開かれることでしょう。
また、進む過程で、さらに、新しい知恵が与えられるでしょう。
そして、その本を読む人は、励まされ豊かな人生に導かれ、それは大きなムーブメントになります。
このように、行動とその結果(実)から、使命を確認していくことができます。
自分では良い、正しいと思っている行動でも、長期間、実を結ばないのであれば、それは、あなたの使命ではないか、神の知恵を使ってないなど、何か的外れなことがあるのかもしれません。
行動することで体験があり、体験から自分の目的・使命を確認していくという視点は大切です。
また、正しい良い人間関係を築くことも大切です。
あなたが、愛を原動力として、神の声を聞きながら神とともに高潔に生きているのを見て共感する人たちが現れることでしょう。
共感をしてくれる人の中に、ともに成功のチームを作っていく仲間や助け手がいるはずです。
この良い仲間や良い助け手が、次の展開への道を開くきっかけになることでしょう。
このチームを形成する仲間や助け手から、あなたの目的・使命は、より明確化されます。
何か大きな目的(使命)を最初から示される人もいれば、大きく遠回りするようにして、たどり着く人もいるでしょう。
ここで大切なことは、今、置かれた職場や領域で、権威ある者(王)として対処すること、つまり、現在の仕事において使命感を持って遂行することも大事だということです。
たとえば、サラリーマンの場合、新入社員として会社に入った人が、自分は、この会社の社長になることが使命だとしても、すぐに社長室に配属され、そのまま社長になるということはありません。
新入社員が社長になる過程では、営業、泥臭い仕事、総務、経理など、自分の不得意分野ばかり仕事をして、最後に社長になるからです。
それは、最終的な使命に入る前に訓練の期間があるということです。
最初から、自分には営業は向いてない、経理は向いてない、早く社長の仕事をすべきだと、今の仕事をいい加減にしていたとすれば、その人は社長になることはないでしょう。
また、いくつかの異なった分野の会社や仕事をこなしてから、最終的な使命に向かうこともあるでしょう。
牢獄の中の奴隷という最低の地位に落とされてから、王と同等の地位になったことで知られる、創世記に登場するヨセフも、王と同等の地位になるまでには、多くの試練や訓練がありました。
今、置かれた領域で、使命感を持って行動することが大切です。
小さいことに忠実であると、大きなものを任せられます。
この3つのアプローチは、それぞれ関連しており、この3つの視点で、日々、バランス良く吟味していくと人生の目的(使命)は、どんどん鮮明になっていくでしょう。
大事なポイントですが、私たちが自分の目的や使命を知るには、普段、見慣れた、当たり前だと思っていたことが、当たり前ではないことに気づく必要があります。
ここに、一つ興味深い話があります。
ある日曜学校で、先生が子供たちに次の質問をしました。
「世界の七不思議」は何でしょうか?
子供たちは、次々と答えました。
1、エジプトのピラミッド
2、宇宙に人が行けること
3、ナイアガラの滝
4、万里の長城
5、超高層ビル
6、コンピューター
7、メキシコの遺跡
子供たちの答えは、大体このようなものでした。
ところが、一人の少女が、ずっと悩んでいます。
少女が悩んでいる訳を言いました。
「世界のことは良く分からないけど、身近に不思議なことが沢山ありすぎて、7つに絞るのは難しいわ」
「思いついたもの何でもいいよ」と先生が言うと。
すると、少女は、しばらくして話し始めました。
私が思う世界の七不思議はね
1、 見ること
2、 聞くこと
3、 触ること
4、 舌で味わうこと
5、 感じること
6、 笑うこと
7、そして、愛すること
それを聞いた、先生の心臓は止まりそうになりました。
あまりにシンプルで、当たり前のことすぎて、見過ごしていることの中に、生きていく中でもっとも大切で、素晴らしい奇跡的なことがあったのです。
あなたも思い出して下さい。
あなたが、物事を素直に見ていた頃を。
目で見たり、耳で聞いたり、舌で味わったりすることを当たり前に思っているかもしれませんが、これは奇跡的なことです。
そして、一番の奇跡は愛されていることと、愛することができることです。
私たちの日常には日々奇跡が溢れていますが、これは神の愛が溢れているということです。
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お金の本質を見ていく前に、「全ての富や豊かさの源泉は天にある」という富の本質を理解する必要があります。
富とは、物質的なお金や財産だけではなく、才能や豊かな人生まで含まれます。これらはすべて良いものであり、富の源泉はすべて天、つまり神の元にあります。
そして、富は人が努力したり修行したりして手に入れるものではありません。神の祝福が人を富ませます。
お金は天から預かっている富の一つなので、良いものですが、金銭を愛することは悪いことです。
これが聖書の考え方です。
ここに混乱があることから、お金を否定する考え方や、その反対の拝金主義に陥ることになってしまいます。
お金の本質を知るために、お金はどのようにして誕生したかを理解し、お金で買えるものと買えないものを見ていくことにしましょう。
お金が登場する前、人々は物々交換、(バーター取引)をしていました。
果実を魚に交換して欲しい人と、魚を果実と交換して欲しい人とが、それぞれ自分の持ち物と相手の持ち物を交換していました。
この場合、お互いの欲しいものと手放したいものが合致し、しかも同じ価値(等価)である必要があります。
つまり、自分が魚を持っていて果実が欲しいと思っても、果実を持っている人が、肉を欲しいと思っていたら、交換は見送るか、肉をどこからか調達してくるか、相手に納得してもらって、一旦、肉の代わりに魚と交換してもらう必要があります。
お互いの持っているものと、交換したいものが異なることが圧倒的に多いため、物々交換は、非常に不便です。
そこで、登場したのが、中間的な媒介をするお金です。
魚を持っている人は一旦、魚を売ってお金に変えてから、果実をお金に交換したい人(果実を売りたい人)を探せば良くなり、利便性は飛躍的に向上することになります。
ここで、お金には次の3つの優れた機能があることが分かります。
お金は、モノの価値を定めることができます。
つまりモノに値段が付くことになり、その価値を客観的に知ったり、提示することができます。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。(マタイ10:29)
一アサリオンとは約二千年前の当時のお金の最小単位ですから、一羽のスズメは最小単位のお金以下の価値しかないということになります。
最小単位のお金という視点で単純に考えると、スズメは2羽1円で売っていることに相当します。
昔から、スズメは価値の小さいものであり、このたとえでは、「価値の最も小さいものでさえ神が目を留め介入している」という意味で使われています。
物々交換の場合、相手の欲しいものを、こちらが用意する必要がありますが、お金で決済することで、その必要がなくなりました。
お金を渡すだけで、取引完了です。
「あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の家のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑をあげよう。もしあなたがそれでよいと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」 (Ⅰ列王記21:2)
聖書ではお金をお金、もしくは銀と表現しており、お金はかなり昔から存在していることが分かります。
魚が大漁だったとしても、魚を大量に蓄えることは難しいです。
しかし、お金があれば、魚を売ってお金にして、お金として蓄えることが可能です。
また、お金を銀行に預けておけば利子を得ることもできます。
聖書には約2000年前にはすでに銀行があって、預けておくと金利をもらえることが書いてあります。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。(マタイ25:27)
このようにお金が登場することによって、取引は劇的に便利になりました。
先ほど、スズメがお金の最小単位以下の価値で売られていることを書きましたが、それでは、地上で一番高価なものは何でしょう。
一般的に、人の命は地球より重いと言われていますが、これは人の命はお金では買えないくらい高価という意味です。
聖書でも、命はお金で買えないものとして扱われています。
イエスが登場する以前の旧約聖書時代は自分の罪を許してもらい、死に至らないように動物を生贄(いけにえ)として毎年捧げることで、人の命の代償としていました。
つまり、人の命を動物の命と交換していたことになります。
命はお金では償えないものであり、命は命との引き換え(バーター取引)が必要だということがわかります。
聖書の中で一番重要なものは福音(ふくいん・英語ではグッド・ニュース)といわれるものです。この福音は壮大な命と命の引き換え(バーター取引)と言えます。
福音とは「イエスが全人類の身代わり(代償)となって十字架で死んだ」ということです。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。 (マタイ20:28)
注:人の子とはイエスキリスト
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。(Ⅰコリント6:20)
この表現だけですと分かりにくいので、聖書に書かれた福音を簡単に解説しますが、これは、聖書全体の壮大なストーリーの根幹部分であり、「実を結ぶ」という概念や、「天に宝を積む」という概念の前提事項です。
アダムとエバ(イブ)は食べてはいけないと言われていた禁断の実を食べるという罪をおかしたので、神から離れてしまいました。
神から離れることを死(の状態)といいます。
「罪ある者は死ななければならない」というのが聖書の原則であり、現代の死刑の概念の元になっている原則です。
一方、イエスは神が人の姿となり、地上を歩み、人間同様に誘惑を受けましたが、誘惑に負けず、罪をおかすことはありませんでした。
罪のないイエスに死は無いわけですが、死ななくて良いイエスが十字架の上で死んだ(殺された)ことによって、死の状態の人を生かし、神の元、天国に迎え入れるというバーター取引が成立しました。(但し、イエスは死後3日後に復活)
つまり、福音とは、単純にイエスが自分の身代わり、代償となって死んだことを信じれば、その人は命を得て神の元、天国へ迎え入れられる、つまり永遠の命を得るというものです。
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(Ⅰペテロ3:18)
福音とは何かを簡単に言えば、人の命とイエスの命との交換ということが分かります。
この福音から判断しても、人の命はお金で買えないものの筆頭です。
このように、聖書的視点から、お金で買えるものと、お金で買えないものを見ていくと、お金の本質が分かってきます。
お金の本質を知る上での再確認ですが、お金は富の一つで、良いものであり、全ての富の源泉は神にあり、神の祝福によって富がもたらされるということです。
私たちの富・お金・財産は神から預けられたものであり、人はそれを楽しむことができ、人生の喜びも与えられたものと書いてあります。
お金は自分で稼いだものではなく、神から預けられたものという認識があると真の楽しみや喜びにつながります。
実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。(伝道者の書5:19~20)
神からの祝福の結果としてお金持ちになることは当然ありますので、富を否定すると神の祝福や恵みを否定することになり、祝福が注がれにくくなり、貧困に陥ることになります。
同時に、聖書はお金を愛することを禁じています。お金を愛するとは貪欲ということです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(Ⅰテモテ6:9~10)
金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。(伝道者の書5:10)
また、お金持ちになるために神を信じるということになれば、それは神を自分の召使いにする発想ですので、これも本末転倒です。
多くの人はお金持ちになることを「目的」にしてしまいますが、お金は「目的」ではなく「手段」にすぎないということをよく認識する必要があります。
お金持ちになることを「目的」にしてしまうのは「お金があれば何でも買える」「お金があれば欲しいものが手に入る」と思ってしまうからだと思います。
お金で買えるものと買えないものを、一つ一つ見ていきますが、これを見ていくと、お金は目標や目的に成り得ないこと分かります。
なぜならば、お金で買えるものは表面的なものばかりで、大切なことはお金で買えない、人の根源的なものばかりであるからです。
お金持ちであっても不幸である人が多いのは、これが原因です。
世の中の成功者の定義の一つとして、「悠々自適に、好きな時に好きな場所に旅行ができること」があります。
確かに、お金があれば、世界中のほとんど、どこにでも行くことができるでしょう。
最近は、高額になるものの宇宙にまで行くことも可能になってきています。
しかし、聖書には、お金で天国へは行けないことが書いてあります。
おのれの財産に信頼する者どもや、豊かな富を誇る者どもを。
人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。(詩篇49:6~7)
天国(神の国)とは、パラダイスのような、人が永遠に安らぐところですが、聖書では「貧乏であれば天国に行く」ということはありませんし、「お金持ちでなければ天国に行く」こともありません。
聖書では、お金持ちが天国に行くのが難しいとありますが、これは、お金持ちが貪欲であったり、お金や財産に頼ったり、お金や財産を持っていることで高慢になる傾向が強いからでしょう。
どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(ルカ12:15)
このあとに続く、イエスのたとえ話は奥深いものです。
「ある金持ちの畑が豊作であった。
そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ12:16~20)
人生の目標の一つを「豪邸に住む」にする人は多いです。
豪邸に住むことで、住み心地が良かったり、プライドを満たすことができるかもしれません。
しかし、聖書には人の寿命は120歳とあるように、この地上に住む時間は最長でも120歳、一般的には100歳も生きれば十分です。
聖書は人の魂は永遠に存続するものと書いてあり、イエスの言葉に以下のようなものがあります。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。(ヨハネ14:2)
父の家とは天国(神の国)であり、そこには住まいが沢山用意され、しかも立派な永遠の住まいです。
天国に行ける人は、天国の相続権があり、この家も与えられているということです。
今の豪邸は短期間だけ、この地上で住む仮の住まいです。
この地上では、私たちは寄留者であると書いてあります。(Ⅰペテロ2:11)
お金があれば、金やプラチナなどの貴金属、ダイヤモンド・ルビーなどの宝石や高価な絵画・美術品などの宝を購入することができます。
これらを手に入れると、一時的に幸福を感じることもあります。
美しい宝石を身に付けたり、コレクションすることも悪いことではありません。
しかし、聖書には、天に宝を蓄えるように書いてあります。
天の宝は永遠の宝で、失われることはありません。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。(マタイ6:20)
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3:2)
地上の宝は、盗まれたり、失くしたりしますし、家やビルも地震で倒壊したり、津波で流されてしまうことがありますが、そもそも、どんなに地上に財産を築いても、死ぬ時には天国にもっていくことはできません。
この世の財産は全て地上に置いていくことになります。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。(Ⅰテモテ6:7)
世の中には地位や肩書きで人を判断する人もいますし、自分の価値を相手に示したり、相手に自分を認めさせたいことから地位や肩書きが欲しい人もいます。
人は肩書きや地位があると自分が偉くなったような気がするものです。
世の中には様々な地位や肩書きがありますが、地位や肩書きも、お金で買えるものもありますし、自分が求めたり、努力することで得られるものもあります。
その一方で、地位については、その地位を求めること自体が欠格要因になることもあります。
たとえば、経済同友会の会長職において、自分が会長になりたいと強く思って会長になるために根回しを始めたとなれば、その行為が会長としての欠格要因となるかもしれません。
なぜならば、皆が、「その人に会長になることが日本の発展に結びつき、世のため人のためになるので、是非、会長になって欲しい」と嘱望される人が会長になるという世界だからです。
ここでの会長職は買うものではなく、自分で得ようとするものでもなく、与えられるものです。
さらに、上位概念である権威は神から与えられるものであり、本来、人が自分のお金や努力で得るものではありません。
権威については奥が深いので、ここでは表面的なことだけに留めておきますが、聖書には、権威は神によって与えられていると書いてあります。
権威は、地位に連動しているものもありますが、この世の地位や肩書きとは別に与えられているものがあります。
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13:1)
権威のない肩書きが意味のないものであることは、その立場になれば分かるものです。
人は肩書きがあると、それを名刺に記載することが多いのですが、多くの肩書きがある人は、名刺もびっしり肩書きで埋まってしまい、自分の名前が隅に追いやられてしまうこともあります。
ところが、肩書きばかりだった名刺も、ある時点から、記載する肩書きをどんどん減らして最後に名前だけにする傾向があります。
これは権威が与えられているために、肩書きを書く必要がなくなったケースや、権威のない肩書を書いても意味がないと思ったからかもしれません。
聖書には、それぞれの人の人生には目的があるとされ、その目的に向かって歩む時に人は生きがいを感じます。
これは使命や天職と言われる概念であり、成功者になるための秘訣です。
ある人は、この世でも誉れとされる地位や肩書きを持つかもしれませんが、ある人は、地位や肩書きとは無縁かもしれません。
自分に与えられている目的に向かって進む時に人は生きがいを感じ、使命や天職と感じながら嬉々として生きることができます。
そして、使命を持って歩む者に権威が与えられていくと言っても良いでしょう。
また使命を持って歩む者には権威だけではなく、必要なお金も与えられていくことになります。
聖書に登場するヒーローの一人、使徒パウロは、今で言えば高級官僚の地位でしたが、やりがいがある自分の使命と出会ったとき、地位すらも「損」と感じ、自分の使命に専念しました。
高級官僚の地位を捨て、神から与えられた使命を取ったのです。(ピリピ3:13~14)
そして、パウロには、与えられた使命とともに権威が与えられました。
非道徳的なものは別として遊びや楽しむことは人に与えられた特権であり、それは悪いものではありません。
遊ぶことで、一時的に幸福を感じることもあるでしょう。
しかし、遊び疲れると、もはや遊びでは幸福と感じることができなくなります。
真の幸福とは一時的に幸福と感じるようなものではありません。
真の幸福とは、何を持っているか、何をするか、ではありません。
聖書の中に書いてある真の幸福とは、いつどんな状態でも、人が神とつながっている状態の時に得られるものです。
つまり、何かを持っているとか、何かをしているのではなく、単純に神とともにいる状態です。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。(Ⅰヨハネ4:16)
反対に、悪の中にいると、いかにお金を持っていても、本人の中に本当の幸福はないものです。
悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。(伝道者の書8:13)
また、神と繋がることは、多くの実を結ぶ秘訣だと書いてあり、これにはお金や財産・富も含まれます。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ 15:5)
注:「わたし」とは「イエス」
快楽とは、一時的に現実逃避して、自分の欲求を満たすことです。
しかし、結果的には以前よりひどい虚しさが襲ってきたり、つけが回ってきます。
今はエンターテイメントがブームです。
現在、テレビ番組は、芸人が登場するエンターテイメント系が多くを占めています。
ディズニーランドは大繁盛で、東日本大震災後に、一日の入場者数が過去最多になりました。
過去の世界の歴史から判断すると、エンターテイメントがブームになるのは、文明が崩壊する末期に現れる現象です。
快楽は一時しのぎであり、より強烈なものを追い求めつづける悪循環になることも多く、そこには本当に欲しい喜びは見出せません。
私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。(伝道者2:1~2)
真の喜びは、貧乏だから、金持ちだからなどという現在の環境や状況に左右されず、内側から溢れてくるものです。
これは「幸福」と似ています。聖書の言葉で言えば「何も持たないようでも、すべてのものを持っている」という確信です。
これは神の子としての特権を得た者たちが持てる確信です。
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(Ⅱコリント6:10)
あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。(詩篇4:7)
防音設備や田舎の静かな別荘はお金で買えますが、心を騒がす雑音から逃げられるわけではありません。
静かな環境が平安をもたらすのではなく、逆に不安になる人も多いものです。
不安を紛らわせるために、雑踏の中にいる人もいます。
環境で平安が得られるわけではありません。
平安とは、お金があっても無くても、また、どのような情況の中でも、心が静かに安息している状態のことです。
お金があれば、平安になると思っている人も多いですが、お金持ちになると、それが失われることが怖く、不安になる人も多いものです。
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)
また、人が神の元で平安を感じている時、つまり安息している時に神が働きます。
お金を出せば、警備を付けたり、防犯設備の整ったセキュリティの高い住宅に住むことができます。
しかし、セキュリティを高くしたつもりでも安心とは限りませんし、財産管理や突然の病気や事故など、思い煩いや悩み事を一度考え出したら安心にはたどり着きません。
全てを、周到に守ったとしても、自分がそれを永遠に所有できるわけではありません。
また、守ろうとすればするほど、それを奪おうとするものが現れるものです。
高度なセキュリティを入れるということは、そこに、お金や財産があることを告知していることになるからです。
わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をこの国から取り除く。彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る。(エゼキエル34:25)
安心とは、神によって自分(と財産)が守られるとき得られる感覚です。
安眠できる高級ベッドや、自分にピッタリなオーダーの高級まくらを買うのも良いでしょう。
美しい、ゆったりとしたBGMや、精神を休めるアロマの香りも眠りを誘うことでしょう。
しかし、このような快適な安眠のためのツールが安眠を約束してくれるわけではありません。
むしろ、お金持ちほど安眠できない可能性があります。
働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。(伝道者の書5:12)
平安がある時に、人は安眠することができます。
イエスは、嵐で揺れる舟の中でも安眠していたと書いてあります。
すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。
ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マルコ4:37~41)
平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。
主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。(詩編4:8)
健康はお金で買えるとも言われます。
これは、健康的な食べ物を食べることで、病気になりにくいという意味で使われることが多いですが、それには限度があります。
一般的には、高価な贅沢な食べ物を食べるほど体を壊しがちで、粗食が健康の元だといえるでしょう。
また、素晴らしい名医や最新の設備を備えた病院が用意されていたとしても、健康になるわけではありません。
素晴らしい設備は健康になるためより、むしろ病気になった時に役立つという意味合いが大きいでしょう。
ある日突然の不治の病になってしまうこともあります。
聖書では健康になる方法が書いてありますが、これはある意味、気楽な方法です。
わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。
そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。
恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。
神と人との前に好意と聡明を得よ。
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。
それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。
あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。
そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。(箴言3:1~10)
美しさは神の特質の一つですから、美しい服を着ることは良いことです。
また、女性がエステに行ったり、化粧をして美しくなろうとするのも良いことです。
そもそも、エステという言葉は聖書のエステル妃がオイルマッサージや化粧をしたことを語源とする言葉です。
外見を清潔に、美しくすることは大切ですが、外見は人の心を反映するものですので、内面を磨き、外面に美しさを現すことが大切です。
人に対する聖書の一番の命令は「喜びなさい」ですが、人が喜んでいる姿は美しいものです。
40才になったら、自分に顔に責任を持てと言われますが、これは本当です。
いくら、外見だけを化粧したり、整形したとしても、内面的な美しさなしでは真に美しいとは言えません。
からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイ6:22~23)
たとえ、大整形手術をして美しくなっても、心が外見についていけなかったり、自分のセルフイメ-ジが低いと不安感の塊となります。
真の美しさは心からくるからです。
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。(ヤコブ4:8)
美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。(箴言11:22)
麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。(箴言31:30)
生まれつき外観的な美しさを持っていたとしても、心が美しくないと幸福から遠ざかります。
あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。(エゼキエル28:17)
太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。(ヤコブ1:11)
一般的傾向として、お金がある時には友達は増えるものです。
金回りが良く、皆をもてなす人は人気者になり、友達はどんどん増えるでしょう。
このような友達が悪いということはありませんが、このような友達はお金がなくなると去っていくものです。
その人の友達を見るとその人が分かると言いますが、お金で集まってくる友の中には悪い道に導く悪い友達もいることでしょう。
思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。(Ⅰコリント15:33)
人を向上させるものが真の友であり、これが友情と言われるものです。
鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(箴言27:17)
心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。(箴言22:11)
聖書には、神が人の友であり、友情という絆を築くことができることが書いてあります。
これは、神は、遠くはなれた存在ではなく、身近にいて、友情関係を持つことができる人格的(神格的)な存在であるということです。
そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(ヤコブ2:23)
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)
注:「わたし」とは「イエス」
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)
会社や組織を買うことや、給料を払うことで部下を持つことはできます。
しかし、弟子としてついてくる人はお金がもらえるという理由で、ついてくるわけではありません。
むしろ、弟子とは弟子自身がお金を払ってでも、ついてくる人のことです。
その人に魅力があって、その人みたいになりたいと思った人が弟子となります。
お金持ちには、お金持ちになる方法を知りたいと弟子になる人もいるかもしれません。
しかし、お金持ちになることを第一目標にしている弟子ばかり回りにいることは、良い状況とは言えません。
なぜなら、その弟子たちは、その人の弟子ではなく、お金の弟子だからです。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)
その日、三千人ほどが弟子に加えられた。(使徒2:41)
お金を使って人の関心を引くことは可能ですが、愛を買うことはできません。
聖書の中では愛は行動の基本にすべきものとされています。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。(Ⅰコリント13:3~8)
愛はお金で買えないことは、皆が分かっていますが、一番欲しいものが愛です。
そして、人は愛されることによって、人を愛することができます。
聖書では、人はそもそも神に愛されている存在であるとしており、愛されるための条件はありません。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:19)
愛されるために何かをするのではなく、すでに愛されていることを知ることが大切です。
知識は人が人として生きるために基本的に必要なものであり大切なものです。
高い授業料を払い、高度な教育を受けることで、高い知識を身に付けることができます。
知識と似たことばで、知恵という言葉があります。
知恵は知識を昇華したもので、知識に加えて経験や体験などの裏づけがあって会得するものであり、これも実践的な学習をすることで身に付けることがある程度可能です。
この知恵は人の知恵のレベルと神の知恵のレベルにわけることができます。
神の知恵は賜物の一つであり、神から与えられた才能や能力の一つです。
賜物である神の知恵や才能はお金で買うことはできません。
天才は辞書をひくと「天から与えられた、たぐい稀な才能」という意味ですが、天才でなくても才能は天(神)から与えられたものです。
人の知識は間違えることも多いものです。
アダムとエバは禁断の実である知識の実を食べてしまったことから楽園を追放されましたが、これは人が知識を求めてしまったため、楽園に住むことができなくなってしまったからです。
さらに、人の知恵のレベルと神の知恵のレベルとは大きく乖離があります。
それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。
(Ⅱコリント2:5~8)
幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。
それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。
知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。
その右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがある。
その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。
知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。(箴言3:13~18)
神の知恵や才能などを筆頭に賜物とは人に与えられた大きな富です。
また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。(伝道者の書3:13)
この世において、お金で人に影響を与えることは可能です。
お金で人の気持ちを一時的に向けさせることも可能でしょう。
成功者はこの世に対する影響力を持っています。
しかし、この世に対する影響力を持つ以上の力があります。
それは、神への影響力です。
神への影響力を持つ人とは聖書の中では勝利者という概念です。
つまり、この世の成功者の概念の上に、この世に勝利したという意味の勝利者という概念があります。
勝利者は、この世の成功者と比べると小さい者・弱いものであるように見え、世の中に対して何の影響力もないように見えることもあるでしょう。
しかし、この世に対しては影響力がないように見えたとしても勝利者は、神が、その人の祈りを聞きます。
聖書に登場するモーセは、特にカリスマ的な人でもなく、演説が上手だったわけでもなく、むしろ口ベタでしたし、皆から文句ばかり言われてきた人ですが、荒野を40年間もリードし続けた人です。
このモーセは常に神と対話し、モーセが神に語ると神が答えてくれたので、民もモーセについていきました。
主はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ。」
しかしモーセは【主】の前に申し上げた。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」
中略
わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行おう。
パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。
わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」 (出エジプト6:29~30 7:3~5)
人から賞賛されることは良いことです。
お金を使って人から賞賛されることも可能です。
貧しい人に大金を寄付すること(施しをすること)は賞賛に値します。
しかし、人からの賞賛はすでに、賞賛という報酬を受け取っていることになります。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:2~4)
聖書には人が富むには神の祝福がキーであることが書いてあります。
この最後の項目だけ、今までのお金で買えるものとお金で買えないものという区分けから少し違うところがあります。
人からの賞賛を得るために、つまり自分の自己満足のために困っている人にお金を与えることはできますが、人からの賞賛を受けた時に、その報いは終わってしまいます。
しかし、人に知られずに、困っている人にお金を与えると神が祝福してくれますので、この場合にはお金で神の祝福が買えると言って良いでしょう。
いかがでしたか?
お金持ちが求める多くものがお金で買えないものばかりであることが分かったと思います。
しかし、それはお金が不要なものという意味ではありません。
聖書の富の概念と、この世のお金には接点があることも分かったと思います。
聖書の富と、この世のお金の両方の意味と扱い方を知る知恵こそが、人にとっての大きな財産であると言えます。
『聖書に隠された成功法則』(サンマーク出版)は、富と密接な関係がある成功について書きました。
真の成功者となるための必読書です。
激動の時代を迎え、私たちの仕事や生活が揺さぶられる出来事が多い時代となりました。
現在は、経済面の激動が主ですが、今後、地震などの天変地異なども増えていくと予測しています。
この激動は、私たちが本来の姿に前進するために用意されたのではないかと思っています。
1997年に韓国は国家破綻して景気が急落しましたが、その後、急回復をしたように、急落後には急上昇が待っています。
相場において、下落トレンドを転換する時には、最後の大きな急落、相場ではこれをセリングクライマックスと言いますが、この急落後(セリングクライマックス後)に急反転をし、長期上昇トレンドとなることが多いです。
日本株(日経225)は約20年間もダウントレンドが続いてきました。
長期株価の低迷は日本の財政において年金問題・財政問題など諸問題を先送りにしていたことが要因の一つといえるのでしょう。
先送りは根本的な解決にならないため、かえってショックの規模を大きくすることになります。
先送りをすればするほど傷が大きくなるわけですが、日本の経済も将来、セリングクライマックス(大きな急落)がきて、その後急上昇していくことになるのでしょう。
人間を含めて、全ての生き物は、安定した環境、心配がない環境が長く続くと堕落してしまう傾向があります。
人が成長するには、ある程度の緊張が必要です。
私が長く相続対策や財産のコンサルティングにかかわっている中で、若いうちに大きな相続財産を得て働かなくても良くなった人々を見てきました。
そのような人が幸福かといえば、幸福ではないケースが多かったように思います。
共通することは、働かなくても食べていける状態になると、学生時代は優秀だった人であっても、資格試験に全然合格しないような状態に陥ることが多いということです。
大きな財産を得たことが、それが減ったり、失ったりする不安となり、財産を保全することばかりに力を入れ、前向きな取り組みには力が入らなくなってしまうのです。
極端な場合には、節税が仕事になってしまい、社会貢献できるような創造的な仕事とは正反対の仕事になってしまうことになりセルフイメージの低下をもたらします。
ストレスは悪いものという意識があると思いますが、ストレス・緊張がない世界は人が伸び辛い環境といえるでしょう。
すでに激動は始まっていますが、この激動は次の社会へ変革するための、スクラップ・アンド・ビルドのスクラップというのが私の認識です。
ここで、一つ大事な注意点があります。
変革の時には、最初は偽の新しい社会システムも台頭してくると思いますので、偽の新しい社会システムに騙されない知恵が必要になることでしょう。
偽の新しい社会システムの最大の特徴は、世界統一というキーワードがあるということです。
聖書的な視点で見ると世界統一というキーワードは危険なキーワードだという認識です。
世界平和のために世界を統一するという非常に耳あたりの良い響きで、皆の関心を引き付け、最初のうちは良い社会になりそうに見えると思いますが、最終的には、間違った方向であると思います。
偽物が多く登場するのが、これからの時代の特徴の一つだと判断しています。
今の社会システムは疲弊していると思われます。
共産主義は崩壊しましたが、今の資本主義も限界に来ているように感じています。
資本主義によるデリバティブ等の技術を使った投資は怪物となってしまいました。
デリバティブの技術により、実際の資本の何倍も何十倍もレバレッジをかけることが可能です。
通貨は、すでに金(ゴールド)など現物資産の裏付けなしに信用だけで発行されていますが、そのお金にレバレッジをかけて何倍、何十倍もの運用できるということで、資本主義は欲に歯止めをかけることができなくなったと言えます。
欲が暴走する時には、常に破綻が待っています。
FX(為替取引)で、相場取引の本質を知らない人が大きなレバレッジで頻繁にハクチ的取引をすることで、あっという間に破綻するのと同様に、社会システムがバクチをしているのが今の世界です。
実際の資金に大きくレバレッジをかけることにより、つまり、実際の資金を遥かに超えた金額を動かすことにより、金融システムが傷付いてしまったことから、未曾有の金融危機となりました。
サブプライムローン問題が、2008年9月のリーマン・ショック、そして金融危機につながりましたが、このサブプライムローンは、鉛(なまり)、つまり価値がないローンを、金(ゴールド)、つまり優良なローンに変換する錬金術のようなものでした。
この錬金術の理論は、外観的に金(ゴールド)に見えるように、鉛に金メッキをするようもので、最終的に、このメッキが剥げてしまったため、大混乱となったのです。
2001年のエンロン破綻事件も、これと同じくデリバティブによる粉飾が元凶です。
資本主義の申し子が資本主義を破壊したと言って良いのでしょう。
今までの資本主義の社会システムの悪い面では以下のようなものがあると思います。
富の不当な集中が貧困を生む
強欲(欲の暴走)
腐敗
利己主義
汚職
インサイダー(的)取引
悪知恵
搾取
貧富の差の拡大
極端な富の集中
「仕事」と「生きがい・楽しみ」の分離(仕事は食べるための手段)
金融危機の発端となった投資銀行が、破綻を免れるために政府から支援を受けたにもかかわらず、経営者が責任を取ることなく、巨額なボーナスを得ているような不公正に一握りの人に富が集中する、いびつな姿です。
変革が目指す社会とは、たとえば、違法スレスレのインサイダー的な取引で巨額の報酬を得るようないびつなものではなく、正しい働きに対して適正な報酬が受け取れ、また働きそのものが喜びになるような本来の社会への変革です。
生活のために仕事をするのではなく、仕事が遊び・楽しみになるような感覚です。
一部の人が搾取するのではなく、社会の皆がメリットを享受できるようなWIN-WINの社会です。
アダムとエバが当初生活していたエデンの園(天)は、着るものや食べるものに困らない世界でしたが、そのイメージに近いものです。
変革が目指す社会とは以下のような特徴があります。
WIN-WIN
フェアトレード(公平な取引)
仕事が生きがい(仕事と生きがい・楽しみが一つ)
公平な社会
良い知恵がある社会
人にも環境にも優しい社会
国や民族が、それぞれ独自の文化や個性を持つ(世界統一とは反対)
この変革が目指す社会とは「御国(みくに)の経済」と言う表現を使うことも可能です。
知恵が与えられ、仕事と生きがい、楽しみが一体となるような「御国(みくに)の経済」は革新的なものなので、イメージできない人がほとんどだと思いますが、自分の人生の目的に向かって歩んでいる人は、すでに実感し始めていることでしょう。
金融危機を発端とする株価の低迷や経済の低迷からスタートした現在の激動の時代は世界全体に閉塞感がありますが、これは生みの苦しみの時だと認識しています。
現在の経済危機による閉塞状態を打破するための、まっとうな具体的解決方法については、政治家や経済評論家、宗教家など、どの分野の人も提唱していないように思います。
なぜならば、今回の経済危機は過去にないレベルのものであり、過去の経験が役立たないからです。
表向き終焉したように見えたとしても最終的にはウミが出尽くすまで続くと思います。
今の経済危機が過去の延長ではなく、新しい経済システムに移行する過程であるという認識が無かったり、また、その認識があったとしても、どうすれば移行できるかの具体的な知恵が、まだ与えられてないからだと思います。
変革というと、物凄く大きな視点と立場から力ずくで世直しする必要があるように見えますし、世の中では戦争や策略などパワーを使って実現しようとするでしょうが、実際には、その間逆だと思います。
それは、私達の一人ひとりが、自分の人生の目的を理解して、その目的に向かって歩み始めることが、個人、そして社会が革新するために必要なことであり私達に求められていることだと思います。
これは天職の概念と同じです。
天職は、天から与えられた職業という意味ですので、神から与えられた職業と言い換えることができます。
一人ひとりが天職、つまり自分の人生の目的を知り、それに向かう時、皆が爆発的に成功(爆裂)し、社会の閉塞感を打破し、社会全体に変革が起こり、暮らしやすい社会になるということです。
但し、前述したように、聖書から判断すると、偽物の社会変革も台頭してくると思いますので、自分の目的をしっかり見出すことに集中してブレの無いように足元を固める必要があると思います。なお、この変革のムーブメントは日本から始まって、世界に伝播することになるような気がしています。
聖書の世界観からすると、この変革が目指す、御国(みくに)の経済を実現していくことは、それは奪われた天国を奪還するゲームのイメージです。
アダムとエバが最初にいたエデンの園(天)は、非常に住みやすく、食べるものにも着るものにも困ることがない平和なところでした。
しかし、ここから追放されたゆえに、仕事と楽しみが分断されてしまったと言えます。
最初にケルビムたちが守っていたのはこの御国(みくに)・天国でした。
・自分の性格を知ることは、自分の天職、つまり自分の人生の目的が分かる。
↓
・自分の人生の目的が分かり、それに向かって歩みだすと、人生がドンドン開ける。
↓
・皆の人生が開けると、社会も変わり、閉塞感から開放感がある時代に変革。
という流れかと思います。
経営の神様と呼ばれるピーター・ドラッカーが強み経営を提唱していますが、この強み経営は、会社に与えられた目的に向かって進むという意味でしょう。
現在の激動の時代は、新しい社会変革のためのものという位置づけをしているわけですが、これは皆が覚醒するために激動が起きていると考えると良いという認識はとても大切だと思います。
特に日本人が覚醒するためには、過去もそうでしたが、外圧が必要でした。
ショック療法が効くまで激動は続くように思います。
現在、激動の中で、何をしたら良いか分からないため萎縮して、目先の結果を出すことに目を向け、大きな方向性については、自分で考えるより指示を受ける方が簡単で良いという風潮になっているように見えます。
しかし、一方で、ネット時代の今、前向きな動きも見られます。
それは、意識が高い人の中で、パーソナル・ブランディング志向が強まっているということです。
パーソナル・ブランディング志向とは自分の強みを伸ばして、ブログ・ツイッター・フェイスブックなどインターネットの先端ツールなどを駆使し、自分自身を世の中に直接、強烈にアピールしようとするものです。
これらの動きは、会社組織や社会システムなどに縛られずに、個々の個性や才能を伸ばして、それを皆に認めてもらうということであり、この方向性は基本的には好ましい方向でしょう。
世の中で実際に行われているパーソナル・ブランディングが適切かどうかの検証は別にするとして、少なくとも適切なパーソナル・ブランディングは、その人を活かし、収入も良くなり、楽しみながら仕事をしていく方向であり、それは社会的にも価値のある大切なことだと思います。
パーソナル・ブランディングは自分を売り込むためのものですが、その前に、自分を確立することが大切です。
自分は、
何が好きなのか
どのような能力があるのか
どのような使命があるのか
何をしたいか
が明確にならない限り、ブランディングは、できないからです。
これらが明確にならない段階で、つまり自分への本質的なブランディングができてない状態で、表面的・外観的(ファッション的)なブランディングをした場合には、それが表面的だと分かったとたんに逆効果となります。
それは、「浅はか」というブランディングになってしまうからです。
そして自分を確立するファーストステップは「自分は誰か?自分はどのような存在か?」を知ることであり、これを理解することです。
これは、聖書が明快な回答を持っています。
また、ネット時代の組織論について書いた興味深い本があります。
「ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つ」
オリ・ブラフマン/ロッド・A・ベックストローム著(日経BP社)
この本は次世代の組織マネジメントの本であり、この本には聖書の「せ」の字もでてこないため、聖書とは全く無関係に見えますが、聖書に流れる人と神との関係の基本概念そのものであり、興味深い名著です。
ヒトデは、頭が無いので、半分に切っても、それぞれが再生して2匹になりますが、蜘蛛は、足を切っても再生しないし、頭を切ったら死んでしまいます。
現代の企業や国など多くの組織は蜘蛛タイプが多く、過去の歴史の中で、繁栄していた蜘蛛タイプの組織は、トップの首を取れば簡単に崩壊してしまいますが、アパッチ族のような権限分散型の組織はトップの首を取っても崩壊せずに、逆に弾圧を受けるほど強くなります。
ヒトデ退治をしようと思って、全てのヒトデを半分に切ってしまっても、ヒトデは退治されるのではなく、倍に増えてしまうのです。
ヒトデ式の組織は激動や逆境に強いということです。
今、中国で聖書が爆発的に広まっているのは、政府から教会が弾圧を受け、牧師はいなくなり、教会堂は使えなくなったためです。
結果として各自が神に直接分からないことを聞くようになり、爆発的に聖書の福音が広まることになりました。
弾圧を受けたことで、人々は神に直結し、それが逆に聖書が広まる結果となったわけですが、これは、人がヒトデタイプの組織として神に繋がっていることを示しています。
先のパーソナル・ブランディングは、このヒトデ組織に相当するのでしょう。
会社や社会や組織に依存せずに、一人ひとりが、個性に合わせて(天から与えられた職業に合わせて)個々に活動するからです。
このヒトデ組織が強いということが分かっても、実際にどのように適用するかということになると、元の聖書の個人観・世界観を理解しないと単なる知的満足で終わってしまい、具体的な応用が困難です。
聖書的に見ると、ヒトデ式とは、人間一人ひとりが個人的に神に直結することで、知恵や力を得るということです。
神に直結しているとは、神とともに御国(みくに)・天国を形成するということであり、その時々に必要な知恵・人脈・お金・チャンスなどがベストなタイミングで与えられるということです。
つまり、以下の概念は同じことを言っていることになります。
人の真の成功
自分のミッション
天職
実を結ぶこと
人生の目的に向かって歩むこと
天国を地上に創ること
御国(みくに)の経済
神に直結していること(ヒトデ型)
魅力的な女性・魅力的な男性となる
そして、これらの共通ポイントは、一人ひとりが激動の時代を乗り越えるだけではなく、激動の時代を大きなチャンスに変えることができ、そして、社会全体に良い変革をもたらすということです。
ケルビム・パターンは、そのためのツールであり、私の目的は、皆さんが、激動の時代をチャンスにして、爆裂、つまり爆発的に成功していただくことです。
●性格ドットコム ケルビム・パターン
http://www.seikaku.com/
「魅力的な女性になる」・「魅力的な男性になる」というテーマは人々にとって普遍的なテーマです。
聖書には魅力的な女性・男性が大勢登場しますが、聖書を読めば本当の意味で魅力的になる方法も読み取ることができます。
魅力という要素も、他のさまざまな人生の要素と同じく、「万人共通」で通じるセオリーと、「性格タイプ別」に使い分けるべきセオリーとが存在します。
まず、魅力的な女性・魅力的な男性の要素を、ケルビム・パターンに従った4つの性格タイプ(性格ドットコム http://www.seikaku.com/)に分類してみましょう。
これは、それぞれの性格タイプが本来持ち合わせている魅力であり、いわば、その人にとって一番ナチュラルに引き出しやすい魅力と言えます。
もちろん、ときにはここで列挙するパターン別の魅力とは異なる魅力的要素を持っている人もいますが、あくまで基本形だと思ってください。
項目の中には、一見すると相反するものも多くありますが、じつは相反する要素両方を持ち合わせ、必要な場面で使い分けることができる人こそが、一層魅力的な人といえるでしょう。
外交的・社交的
外向的・開放的・明るい
柔軟性がある
おおらか
話題が豊富
リーダーシップがある
広い人間関係がある
人つきあいが良い
皆が幸福になって欲しいと思っている(愛に溢れている)
誠実・まじめ
堅実・実直・几帳面
礼儀正しい・マナーができている
奥ゆかしい(大和なでしこタイプ)
安定感・継続性がある
目的を持っている
倫理観がある
計画性がある
力強い
芯がある
賢い・知的・教養的・知恵がある
洞察力がある
思慮深い
奥深い
豊かな感情
正義感がある
物静か(芸術派タイプ)
爽やか
包容力がある
さっぱりしている
先見性がある・視点が高い
夢・期待・希望がある(ビジョンがある)
ひらめきがある
直感がすぐれている&論理的
適切な距離感が持てる
こうして、4つの性格タイプ別の視点で分けてみると、魅力にはかなり幅があることが分かります。
次に、どの性格にも共通する魅力の要素をまとめてみましょう。
美しい・カッコ良い・かわいい(顔・しぐさ・歩き方)
プロポーションが良い・姿勢が良い
女性らしい・男性らしい
かわいい(性格が)
やさしい
親切
寛容
勇敢・勇気がある
素直・無邪気
自己中心ではない
イキイキ・ワクワク
しなやか・しとやか・つややか
妬まない・裁かない
高慢にならない
怒らない(悪には怒る)
いつも喜んでいる
いつも楽しんでいる
笑顔が良い・いつも笑顔
存在感がある(いるだけで空気が変わる)
自然体(もっと魅力的になろうと思っているが、魅力的に見せようとしない)
凛としている
清潔感がある
コミュニケーション能力が高い
気遣い・気配りができる
混乱がない
仕事を楽しんでいる
いつも近くにいたいと思う
何かに夢中になっている(恋している)
愛されていることが分かる
心身ともに健康的
能力がある
個性がある・その人らしい
多面性・意外性がある
バランス感覚がある
平安
若い心
幸せで楽しい人生を送っている…(成功している)
以上、これらの要素を見ても分かるように、一概に「魅力的な人」といっても、その内容には多様性があることが分かります。
ここで、聖書的な視点から、魅力的な人の根源を探ってみましょう。
聖書的な「魅力的な人」を定義しようとすると次の3つの視点になるように思います。
1.神(イエス・キリスト)に似た人
2.エデンの園にいた時のアダムとエバのような状態の人
3.実を結ぶ人
聖書には人は神に似せて創られた最高傑作と書いてあるので、最初に創られた人であるアダムとエバは、とても魅力的であったといえます。
創世記をみてみましょう。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。
神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはう、すべての生き物を支配せよ。」
ついで神は仰せられた。
「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。
また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはう、すべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」
すると、そのようになった。
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。
見よ。それは非常によかった。(創世記1:27~31)
人はもともと、神に似た素晴らしく魅力的な人として創られ、「それは非常に良かった」とあります。
しかし、神が食べてはいけないと言われていた禁断の実を食べたことによって、楽園であった天(エデンの園)から離れ、神から離れ、人としての魅力も落ちてしまいました。
聖書によると、人が魅力的になるとは、元々の神に似せて創られた状態、つまり最初のエデンの園にいたアダムとエバのような状態に戻ることであり、(バック・トゥー・ザ・エデン)神に似たものとなる、つまり、イエスキリストに似た者となることが魅力的になることです。
人は、自分が似たいと願う者に似てきますが、神に似ることは、最高に魅力的であり、最高の目標と言えるでしょう。
また、神に似た者となるという意味は、実を結ぶ人につながります。
聖書では、実を結ぶ人とは、神と似た者となることと、自分の周りに天を作る人だからです。
先にあげた、聖書的魅力の3つの要素をそれぞれ見ていきましょう。
聖書では、神に似たものとなるということが最高のゴールであり、最高の魅力です。
これは、人の本来の姿に戻るということです。
聖書によると、神は通常は目に見えない存在なので、イメージしにくいですが、イメージしやすいのは、目に見えるかたちで現れた神の子である「イエス・キリストに似た者となる」ということです。
そして、聖書から神の要素を一言で現すと「神は愛」です。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(Iヨハネ4:1)
そして、愛とは以下のように書いてあります。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。(Iコリント13:4~8)
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。(Iコリント13:13)
魅力の本質は愛であり、愛から寛容・親切・人を妬まない・自慢しない・高慢にならない・礼儀正しい…という魅力的な人の要素が抽出されます。
神に似る・イエスに似るという視点を少し変えると、最初のアダムとエバに戻るとどうなるかをイメージするのも魅力を理解することになります。
まず、エデンの園にいたアダムとエバと私たちが一番異なることは、アダムとエバは神に直結していて、神と普通に会話し、親しい交わりができたということです。
聖書によると、神に繋がっている状態が「人が生きている状態」であり、神から離れている状態、繋がってない状態が「人が死んでいる状態」です。
また、神から離れている状態は「的外れ」な状態であり、これを聖書では「罪」と呼びます。
つまり、神と繋がっている「生きている状態」は魅力的だということです。
アダムとエバはライフスタイルとしても神との交わりを楽しみ、食べるものも着るものにも困らずに楽しい暮らしをしており、外形的にも美しく魅力的で、今の私達から見ると素晴らしく成功している状態といって良いでしょう。
このようなエデンの園にいた時のアダムとエバの状態を目指すことが大切ですが、もっと身近な視点で聖書的な魅力を定義すると、実を結ぶ人となります。
聖書の魅力的な人の定義は成功の定義と同じ「実を結ぶこと」と言っても良いでしょう。
つまり、聖書的な魅力的であることと成功は同じ概念です。
○聖書の実を結ぶとは(その1)
1. 神の国(天国)をこの地上に創る (神の国を自分の外側に創る) 獅子
2. 神に似たものとなる (神の国を自分の内側に創る) 人
この言葉を変えてみると次のようになります。
○聖書の実を結ぶとは(その2)
1. 周りの人を幸福にする 獅子
2. 自分の内面を磨く 人
これを一言で言うと次のようになります。
○聖書の実を結ぶとは(その3)
神とともに、神の国を創る 鷲
さらに視点を変えてみると次のようになります。
○聖書の実を結ぶとは(その4)
自分の人生の目的を知り、それに向かって歩む 雄牛
これらは、シンプルですが、魅力的になるための秘訣です。
自分の内側と外側に実を結ぶことが魅力的になる秘訣とすれば、聖書で実について書いてあるところを見てみましょう。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22~23)
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。
光の子どもらしく歩みなさい。
光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。(エペソ5:8~9)
あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。
またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。(ピリピ1:10~11)
私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。
それは、実を結ばない者にならないためです。(テトス3:14)
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)
ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。
しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。
義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。(ヤコブ3:16~18)
実について聖書を見ていくと気付くことがあります。
それは義の実という表現が多いことです。
聖書で使われている「義」という言葉は原語では「神に繋がる」という意味を持っています。
そこで義につての聖書の言葉を見てみます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。(ローマ1:17)
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです(ローマ3:28)
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:10)
義、つまり神と繋がることと、実を結ぶことは直結していることが分かります。
わたし(イエス)はぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)
神に繋がることが実を結ぶ秘訣です。
気付かれた方も多いと思いますが、実を結ぶことが魅力の概念であり成功の概念と同じであるとすれば、聖書の次の基本3原則も魅力的な人の3原則です。
聖書の魅力的になる3原則をそれぞれ見ていきましょう。
1.人は、それぞれ目的を持って神によって創造された。
これから導き出されることには次のようなものがあります。
テレビでも放映されていたアンケート調査で恋人にしたい男性・恋人にしたい女性というアンケート調査をした結果を見ると興味深いことが分かります。
(2010年・全国の20~40代の会社員618人を対象)
恋人にしたいタイプとして、
女性が選んだタイプの1位は「仕事を楽しむタイプ」(36%)
男性が選んだタイプの1位は「プライベート重視タイプ」(36%)
男性が選んだタイプの2位が 「仕事を楽しむタイプ」
「報酬志向」と「出世志向」を選択した人は、男女とも、ほぼゼロでした。
仕事を楽しむという概念は、天職(天から与えられた仕事)に通じる概念であり、これは自分の目的にあった仕事に就くことにつながります。
仕事を楽しむ、そして楽しめる仕事とは、天職や、天職のような仕事をすることであり、モテる秘訣であり、魅力的な人の条件と言えるのでしょう。
ちなみに、恋人にしたくないタイプは男女ともに次の通りでした。
ワースト1「役職や昇進にこだわる出世志向タイプ」 約4割
ワースト2「報酬にこだわる報酬志向タイプ」(19%)
ワースト3「周りの期待や評価を重視する期待・評価タイプ」(17%)
2. 人は、神に似せて創られた最高傑作である。
次に神に似せて創られた最高傑作という視点から導き出せることは次のようなものです。
神と似た者は、この世において最高のセルフイメージですが、セルフイメージが高いことは魅力の基本的要素の一つです。
高いセルフイメージは、困難を乗り越える力ことにもなりますし、人の言葉などからにも傷つきにくくなります。
3. 人は、神から愛されている。
神から愛されているということは、最高の原動力になります。
愛されている人は他の人を愛することができます。
この世の常識と聖書の常識は真逆であることが多いものです。
この世では美しくあるために、アンチエイジングが流行するように、若いことが良いと思われていますが、聖書の概念では、エイジングは日々劣化するのではではく、日々良くなることです。
内面的な美しさは、年齢とともに向上させることができます。
また、内面的な美しさは外面的な美しさに繋がります。
40過ぎたら自分の顔に責任を持てという言葉はそれを表しています。
聖書を見ると、内なる人は日々新しくなることが書いてあります。
主は御霊です。
そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(IIコリント3:17~18)
たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Iコリント4:16)
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
とあるからです。
あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。(Iペテロ1:23~25)
人の本質は苦難や試練の時に現れるものです。
個人的な見解に近いかもしれませんが、魅力的な女性を一言で、定義すると次のようになると思います。
「どんな時でも(試練の中でも)笑顔でいられる女性」
これには、包容力・高いセルフイメージ・愛・期待・希望・平安など多くの要素が含まれています。
同様に、魅力的な男性を一言で、定義すると次のようになると思います。
「他人のために死ぬことができる男性」
但し、これは、強すぎるので「どんな試練でも乗り越える男性」としても良いのかもしれません。
人が魅力を失う、きっかけは結構、簡単なところからきます。
女性は「嫉妬」
男性は「裁く気持ち(批判的な思い)」
どちらも、セルフイメージの低さからくる部分が大きいと思います。
セルフイメージの高い人は嫉妬しません。
人を裁く心は、相手を落として自分を高くするという、自分のセルフイメージの低さをカバーする代償行為とも言えるのでしょう。
これを防ぐ方法の一つは次の3つが大切になると思います。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Iテサロニケ 5:16~18)
聖書が教える「魅力的な人」について概要を書きましたが、いかがでしたか?
魅力的になることと、成功者となることとは同じ概念ですが、以下のものは皆、共通する概念と言って良いでしょう。
【関連サイト】
●ザ・ステイタス会員
http://www.the-status.com/bbs/
聖書に書かれた本質や原理原則についての本を今後も出版していきますが、どれも一行だけ書いてある部分が、一冊の本になるような深い内容の箇所が多々あります。
今後の書籍のコンテンツや、紙面の都合等で掲載出来なかったもの・本としてはディープ過ぎて書籍化できないもの・実務的な応用のアドバイスやヒントを、ザ・ステイタス会員限定掲示板やメルマガで提供いたします。
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